NAMM SHOW 日記 2005 part2


 『明日、ジョンのブースに17th Street Guitarsのベースをチェックしに行くから待っていてね。』と言い残し、チャック・レイニー氏とフィル・ジョーンズ氏は我々と別れた。

 私達はアナハイムからフラートンという街のイタリアンへ。この街はジョンがレオフェンダーがミュージックマンという会社を立ち上げた当時、レオの開発の手伝いをしていた頃や、70年代後半に、彼のお弟子さんやYAMAHA時代の同僚達がFENDER社を立て直す為に幹部に就任した時(現在はCBSから買い上げて、オーナーや副社長に就任しているビル・シュルツやダン・スミス達など多数)に、今のFENDER CUSTOM SHOPの立ち上げ等に尽力をすべく、毎週のようにベニスから通っていたという。その後、G&Lという会社がレオフェンダーメモリアルモデルを限定生産した時も、ボディだけはジョンがカラザース工房でOEMで一台一台製作していたので、なにかとゆかりがある土地だと言う事である。

 『カツトシはカルロスの大ファンなのだから、彼の隣に座りなさい。』
ジョンにそう言われて、カルロス・リオスの隣に座った私は、彼に聞いてみたい事が山程あった。その面白いエピソードの全てが活字にできる訳がないのだが。

 「渡辺貞夫さんの主催しているクラブジャムで来日していた時、弾いていたのはカラザースのギターでしょ?」
『え、どんなのだった?そうだ、思い出したよ。サンバーストでバインディングの。そう、ジョンのカスタムメイドだ。』
「TVで放映した時の映像があるのですが、ヘッド部が写らなくて、確認出来なかったんです。リッキー・ピーターソンとか、ウィル・リーがベースで、ヴィニー・カリウタが・・・。」
『オーそうだね、良く覚えてるね。思い出してきたぞー。』
「ヤマハのカタログの後ろに出ている写真のギターも?」
『そうそう、よく知っているね!今までずっと面倒みてもらっているからね、ジョンには。』
「カルロスは最近日本には来ていないでしょ?クインシー・ジョーンズの時はどうだったの?」
『ああ懐かしいなあ、そういえば武道館でチャカ・カーンとも一緒だったなあ。そういえば、マツモトは知ってる?凄いテクニカルなギタリストなんだけれど。』
「いいえ、松本さんとは面識は無いんです。かって勤めていたショップの先輩だったそうなのですが。日本では凄い人気ですよ。」
『そうそう、彼は凄いよ!じゃ、ケンジは知り合い?凄いベースプレイヤーなんだけれど。』
「ケンジ君は良く知っていますよ。先週も会いましたよ。ナイスガイでしょ?」 *この時点で私はヒノケンジ君の事だと思っていた、が・・・。

 カルロスは本当に日本人のプレイヤーの事を良く知っている。ギター好きが集まったら楽器や音楽の事で盛り上がってしまうのは世界共通なのかなあ。
とっても礼儀正しいカルロス・リオスは、私の質問に一つ一つ丁寧に答えてくれる紳士な人である。そしてギターが本当に大好きなカルロスは、ジョン・カラザースがギターのテクニカルな話を始めると、それを聞き逃すまいとして一生懸命聞き入っているのがとても印象的であった。
『だって、彼はマイスターだからね!』とカルロス。

 「カルロスはラリー・カールトンの一番弟子だったでしょ?あなたのダイナミクスを付けた、抑揚のあるプレイスタイルって、ラリーからの影響が凄く感じ取れるんですが。僕はラリー・カールトンが大好きなんですよ。」
『オーそうか!そうなんだ。ちょうどジェイク(ジェイ・グレイドン)がルーク(スティーヴ・ルカサー)の事を面倒見ていた様に、僕とラリーとも“師弟関係”だったんだ。全てにおいてラリーが僕に影響を与えたと言えるね。釣りも一緒、朝ごはんも向き合って一緒に、時間があれば一緒にジャムって。』
「貴方も弦をベンドする時に首が同じ方向に傾いちゃっていますよね?」
『あはは、そうそう、あはは。』
「でもそんなに尊敬していたラリーのスタイルから、どうやって脱出して御自分のスタイルを築き上げたんですか?あなたのスタイルやトーンは正に“カルロス・リオス・スタイル”だと思うのです。」
『それはありがとう!そうだね、誰だってプレイヤーであれば“自分自身のスタイル”や“独自のトーン”を手に入れなければならないだろう?
ラリーによくアドバイスされたのは、“良いプレイがあれば他人からいっぱい学んで、真似してみて、そして自分自身の中で消化していくんだ。そして最終的にはオリジナルを目指すんだ。真似で終わってしまうだけでは一流プレイヤーには成れないよ。君がラリースタイルのままだったら、もしラリー・カールトン・スタイルが必要な時に、オリジナルの私にいつも声を掛けるだろう。君がギタリストとして生き残る道はただひとつ、カルロス・リオス・スタイルを編み出すしかないんだ!”ってね。』

「そうですね。さっきNAMM SHOW会場で色んなギタリストとジャムっていた時にも感じたのですが、アメリカのプレイヤーは自分自身のスタイルを持つという事を大変意識していた様に感じられました。そしていわゆる上手いプレイヤーは山程いるこの国で、オンリーワンの存在と成るべく、他人とは異なる“何か”を探し続けているという。自分も常にその事を模索してプレイしていますが、様々なスタイルがある中で、魅力的なスタイルを編み出すというのは中々大変ですよね。ジェフ・ベックやヴァン・ヘイレンみたいな天才だったら良いのになあ。」
「そういえば、あのラリー・カールトン・スタイルは、ロベン・フォードのプレイスタイルからヒントを得たんでしょ?“夜の彷徨”のアルバムジャケットの裏には“スペシャルサンクス:ロベン・フォード”とクレジットされていますが、あのビーパップ/ロックスタイルはどうやって出来上がったんですか?その前のアルバム“シンギング・プレイング”の頃はロック/ブルース・スタイルだったし、もっと前のファーストの頃はどちらかといえば、何処にでもあるようなジャズ・スタイルでしたよね。ラリーのスタイルは。」
『カツトシ、それは良い質問だね!実は僕はその一部始終を目撃していた歴史の証人なのさ。いいかい?ラリーが素晴らしいのは、それをたった1年間で創り上げたという事なんだ。 70年代、そう確か75年だったかな、ダンティス(ロスの老舗クラブ)で一週間ギグがあったんだ、ジェフリー(ジェフ・ポーカロ)がドラム、グレック・マティソンがキーボード、ベースがロバート・ポップウェル、ギターがロベン・フォードとラリー・カールトンっていうメンバーでね。そりゃ、毎日が凄いプレイの連続でね。その素晴らしいメンバーの中にあって、あの頃のロベン・フォードって、ちょっと“神がかり”していて、コードチェンジに反応するフレーズも集中力もハンパじゃなかったんだ。で、ラリーはロベンのプレイを毎晩テープレコーダーで録音していて、家に持ち帰っていつも遅くまでそれを聴きながら一生懸命練習したのさ。いいかい?ギグが終わってから本当に毎晩だよ。なぜって?だって僕はそこにいつも居たんだから。その後の一年間で、ラリーのスタイルは劇的に変化し、他のギタリストのものとは全く違った彼自身のスタイルに発展したんだ。そのたった一年間でラリーのあの素晴らしいスタイルは出来上がったんだ。それは本当に彼の努力の賜物なんだよ。これがラリーカールトンスタイルの誕生秘話なのさ!
しかし、人が一生涯を掛けて手に入れられるか、入れられないかっていう自分のスタイルとトーンをたった一年間で編み出してしまったラリーって、やっぱり凄いと思わない?』

続く。


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