2009年4月ジョン・カラザースの記念すべき誕生日パーティーが盛大に行われました!・・・part.5












『日本へは53回も行った事があるんだ。
特にフジゲン工場は素晴らしいね。
人々は皆勤勉だし。』

ダンスミス氏はかなり日本通な様で
大好きな日本料理の事、新幹線や美しい景色
そして何より日本人の礼儀正しさに
惹かれるのだと話す。
以前YAMAHAにいた時代には日本に来るチャンスは
一度も無かったんだけれどね、
全てフェンダーでの事さ。と話す。

「あなたがYAMAHAへ入社する時、
ジョンが面接したんでしょ?」

『その通り。
当時私はニューヨークのロチェスターに住んでいたんだ。
面接は1976年12月で、翌月の1977年1月に
こっち(ロス)に引っ越して来たんだよ。』

ロチェスターといえば、ニューヨーク州でも
大西洋側じゃなくて五大湖に面した更に寒い街だ。
「面接の翌月にはこちらへ?」

『そうよ、ジェイソンはこっちで1歳になったんだもの』
と奥さんが。

その横でジョンが赤ちゃんをだっこする
ジェスチャーをしてる。

そういえば、ジョンがジェイソンスミスJason Smith
(現在はフェンダーマスタービルダーの一人で
このダンスミスの次男。
ちなみに御長男はギター業界ではなくて
カーメカニックだという事。
カツトシの兄弟と反対だな。とジョン)
は赤ちゃんの時から知っているよって言っていたのは
そう言う事だったのか。
ちなみにジェイソンスミスは76年1月生まれだそうです。


何年も前にジョンに尋ねた事がある。
ニューヨーク州ロチェスターに一人自分の店で
リペアーマンをしていたダンスミス。
ロスにいたジョンがわざわざアメリカの
反対側にいた彼を面接そして採用。
なぜ?この辺りにもいっぱい良い人が居たんじゃないの?
って聞いたら、

”腕の立つリペアーマンは当時も貴重な存在だった”と。

”いつの時代も本物は、ほんの一握り!”
という訳だろう。ジョンの見識眼が正しかった。

『だからジョンのお陰で今がある訳だね。
もしジョンがいなければ私達家族の生活は
全く違ったものになっていただろう。
まさにジョンはキーマンだ。
ジョンには感謝しても感謝しきれないな。
32年間も親友だからな』




『それと我々ファミリーは3世代
フェンダーで働いていたんだよ。
私の父親もフェンダーさ。』

実家に残してきたダンのお父さんは、
ロチェスターのコダック社の
優秀な技術職だったそうで、定年退職した後、
カリフォルニアに呼び寄せて
フェンダーで働いてもらったそうだ。

マシナリーやツーリング
(製造する為の機械や道具を作ったり
セットアップしたりする仕事)を
1982年から85年まで勤め上げた。

81年の8月にYAMAHAセールスから引き抜かれたダンは
市場のニーズはヴィンテージギターにあると考え
4点止めネックやスモールヘッド復活等
CBS時代に大きな溝になっていた市場と制作側の
”ズレ”を徐々に埋めて行った。

そして82年3月のフェンダージャパン発足と同時に
あの57.62Vintage ST
(通称ビンスト *参照)の開発にも大きく携わった。
ビンストの開発時は多くのヴィンテージフェンダーを
分解して計測したが、後には造りの良かった
日本製のストラトをUSAの工場では多いに参考に
させてもらったのだそうだ。
その頃にもダンは日本製のフェンダー製造の為、
何度もフジゲンに足を運んでいたそうだ。

今ある本物のビンテージストラトの
完全復刻の様なシリーズも
最初の一歩はダンスミスのマーケティングに
あったのだと思う。

ダンのお父さんは
丁度幹部陣が交代して的確な経営によって
徐々に会社が立ち上がって行く頃から
1985年にCBSの手を離れるまでの
激動のフェンダー時代に尽力した。










*参照
当時はまだおおらかな時代で、
大きなヘッドで石のように重たかったそれまでのフェンダーストラトが
(お茶の水界隈ではセメントキャスターとかコンクリートキャスターと呼ばれていた)
ヘッドだけではなくルックスまでもがオールドストラトの様だ。
そしてどうやら音はそれ以上だとこのビンストは大変話題になっていた。

楽器屋さんに行けば、黒柳徹子さんと久米宏さんが司会をしていた当時人気歌番組の
”ザ ベストテン”に毎週出演しているような”プロのバンド”の人が店員さん達と
真剣に意見しオールドストラトとどちらが良いか弾き比べしていたのを
頻繁に目撃したものだ。

その”ビンスト”は確かその頃28万ぐらいだった。
一方の62年オールドストラトでさえもまだ30万ぐらいだった頃なので
「今回入荷のオールドは8本全部ハズレだ。音も今イチだし。
新品の方が音が良いのでこっちを買うよ。」
なんてやり取りは決して珍しいものでも無かった。

その少し前にも、”ワンウェイハート”をリリースして間もないマイケルマクドナルドや
ボズスキャッグスと来日したロベンフォード(当時日本ではロビンフォードと呼ばれていた。)が
ステージでスモールヘッドでメイプルネックのストラトを弾いていて
あれはオールドだ、いやロゴが違う、ヘッドも少し変だな、でも4点止めだったぞ、
と相当話題になっていた。

ビンスト発表直前にダンスミスやジョン達が最初にスモールヘッドに戻したモデルで
俗にアメリカ市場で当時のマーケティング担当のダンスミスに因んで
”スミスストラト”と呼ばれているあれだ。
ヘッドが小さくなっただけでギターキッズには大いに話題になった。

この頃の父のSONYのベータービデオデッキは、若きギタージャンキーによる度重なる
ストップモーション調査の為に寿命を一層早めた。

時すでにビンテージという言葉や価値観はあったが、ストラトであれば
そんなにプレミア価格では無かったし東京の楽器店には数も相当流通していた。
リセールバリューなんて”コスイ”価値観で楽器を選ぶ人もあまりいなかった様に思う。

しかし現在ではその頃のオールドフェンダーストラトは大変貴重な物になってしまい
店頭に並べば軒並み数百万のプライスを付けられており、
もはや選ぶ事はおろか音の善し悪しについて意見するようなものでもなくなってしまった様だが
その頃は価格というマジックに躊躇する事無く、自分自身の価値を感じるままに意見できる
良い時代であった。

このギターは指板の横の(ホクロのような小さい)点の素材が去年のモデルより
オールドに近くなりました。
というように現在の復刻ギター業界は遂に細部までスペックを追い込む段階に
なっている状態なので、今ではこんな話は信じられないかもしれないが
ビンスト発売当時はそれまでの的の外れた?新製品を発表し続けてきたフェンダー社が
遂に拡大しつつあるオールドギター市場のニーズに応えて、昔のギターを
復刻してくれたと歓迎された。

ところが今では老舗ギターブランドにとっての
”たった一つの生き残る道”
になってしまった事が皮肉である。


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